3、自然農法の原点は自らの病気
岡田茂吉が、昭和10年代初期に自然農法を研究をはじめたころ、大きなヒントとなったのは、自らの病気の体験でした。岡田は子供のころからたいへん病弱でした。そして17歳の時に結核を患いました。結核治療の第一人者である入沢達吉博士によって当時の先端医療を受けましたが、「不治」を宣告されてしまったのです。そこで、「どうせ治らないのだったら、自分の身体で実験をしてみよう」と考え、動物性の食べ物と薬を一切やめて菜食生活を始めます。明治中期ですので、今でいう有機野菜だったのでしょう。三か月後病気は完治し、それまでより健康になっていたのです。
明治維新以降、西洋医学が最新と捉えられていた時代に、医者から栄養を採ることを勧められたのに反し、菜食に徹したことで治病したのです。この体験は、その後提唱する岡田の数ある持論の根本となりました。
岡田は多くの病気を経験する中で、人間にとって健康が大切だということを身を持って実感し、その後、多くの幅広い知識を吸収し研究に没頭することで、持論を構築していきました。医学・農学・化学・科学・哲学・宗教学・芸術などなど・・・。現代で言う環境問題、食料問題に至る幅広い研究をしています。その論説の一部を書き起こしたものは書籍として日本をはじめ世界中の人に読まれています。
野菜(大自然)の力で健康になってもらいたい
岡田は、病を治してくれた野菜たちの力と大自然の生命力に感謝し、自然農法の研究を重ねました。そして、食べることを通じての健全な身体作りを持論で語りました。多くの人々に幸せになって欲しいという強い願いからです。
岡田は「人間はその土地で採れたものを食べることで健康になる」と身土不二」の考えを大切にしています。身土不二とは、元々は仏教語で「身と土、二つにあらず」人間の体と人間が暮らす土地(環境)は一体で、切っても切れない関係にあるという意味です。しかし明治以降は、食運動の一環で「地産地消」のスローガン的に狭義の意味で使われていました。岡田は双方の意図を汲み、さらに広義で伝えているように思えます。
自然農法では、作物が本来育ちやすい土づくりを心がけます。
作物に適した風土で栽培すれば手間は少なくなります。日本人は古来より、風土に適した作物を育て、そこにあるものを採取し、発酵食品のような驚くべきアイデアで保存期間を延ばし、しかも体に吸収しやすい形に加工し、独自の食生活を営んできました。
約100年前までは、庶民は日々「一汁三菜」を基本とした粗食で、質素ながら植物繊維を多く含む野菜や穀物が中心の食生活でした。植物繊維を消化吸収するために、日本人は外国人に比べ長い腸を持っていることがわかっています。
「日本食は、世界一の栄養食と思うのであります。」と深い意味を込めて岡田は語っています。奥義と狭義を融合した独自の身土不二論を説いているように思えます。